WEBギャラリー|公募第50回記念近代日本美術協会展 作品講評

公募第50回記念近代日本美術協会展 総評および作品講評

■講評
 設樂昌弘(Shitara Masahiro)―美術評論家―

第50回記念近代日本美術協会展 総評

本展は第50回記念展であり、それぞれが会の伝統の集合知(集団的知性)を感得して、個々の作品を掘り下げるような内面的趣向が目立った。磯貝玉惠、小川賀子他、上位賞においてもそうした傾向が観てとれる。≪瀑音≫を描いた渡邉祥行も、体験による大景を、一歩推し進めて追究し、それは飛瀑音としてこの絵の余韻を表出しているかのようだ。特別賞の浅野美杉、雨宮正子、吉田絵美、オビマリの作品も、自己表現を深めた作品と言えよう。これらは歴史をただ背負うだけの"守旧主義"に陥らず、未来に向かう健全な傾向である。加えて変貌の少ない風景画でさえ、常に時代の新しい趣意により、やはりその関心は少しずつ変貌している。つまり作者の心が対象に深く入り込み、それぞれが繊細微妙に探求した結果が観られたのだ。例えば丸山今朝三、中川令子、佐野理恵子、石澤薫美、小林俊彦等の作品などで、文部科学大臣賞の本木茂子もその典型である。この他、天笠勉、嘉見敏明、後藤稔、宮林忠政、阿部茂夫、中山以佐夫、檜山誠明、佐藤紳ニ、山崎孝利、河内正行、中尾恵、吉野富美夫、中村元彦、冨田実、髙坂小太郎等の作品も見応えのある風景画として挙げておきたい。

このように、美の領域は常に進化し拡張している。クリティック賞の山上久子や星有太郎にも進取の精神を感じ、心象表現の本田哲也、菊池純代、岩井真司等もやはりその好例を示す。この他、抽象と景象の、その間隙を探るような高梨敬子、粟嶋美幸、島村由希の作品や、日本画では河野長廣、菅原キク子、今井葉月、またはボデゴンの長谷川和子、動物画の馬越まゆみ、樋口奈穂、神藤昭、沼田順子等が印象に残る。

小品公募部門の注目作品は、やはり賞の作品を中心に浦山尊史、梅田寿彦、大西翔、田中満紀子、向畑久仁、溝口光、豊田明生等が目を楽しませてくれた。また、国際交流の李賢順、金芝英等をはじめ、百花の如き秀作群が印象に残る。花と言えば更に、増田弘美、不動貴雄も、新人ながら秀逸な作品で掉尾を飾ったことを報告して、記念すべき今展の総評としたい。

 (敬称略)

受賞作品講評

■近代日本美術大賞 磯貝玉惠≪邂逅≫、まずは明るい展示室の採光が目に入る。その屈折光にガラスケースを感知し、ロードスのヴィーナスと、それを鑑賞する若い女性の、その生命感に惹き付けられる。以前の作品≪午後の光≫の講評では、人物の視線の効果を指摘したが、今作もその視線は実に饒舌である。しかし改めて作者の興味は、以前からこの微妙な室内光にあると感じた。それは印象派の光の関心とは全く違う、生活断面の心理ドラマを秘めた光源なのである。つまり作者は、繊細な光を通して一人の人間存在を表そうとしている。そういう意味においては、北欧のヴィルヘルム・ハマスホイの室内光にも似ているが、その静謐な光より、この視点は熱量を秘めているのである。
■第50回記念賞 小川賀子の≪忘れられたものⅡ≫は、クールな視点で、「わび」の原点を遡る社会派の作品である。草木は枯れ、放置された自転車、劣化したブロック塀が、直截情緒に訴えかけてくる。画面は奥行きもなく、閉塞感もあり、強いていえばまだ乗れそうな自転車だけが、唯一の救いだ。しかし審査員の多くは、これを重く陰鬱なものとして観ているのではない。その証拠にこの絵は、第50回記念賞に輝いている。この絵において、時代感情への諦念はない。むしろ逆説的に再生の予感すら感じるのである。私はこの自転車の黄色いフレームが、まさに希望へのレトリックとして変換されたものと思っている。この絵は現代のアッシュカン派とでも言うべき逸品である。
■内閣総理大臣賞 菊池純代の≪未来へ≫は、安藤忠雄にインスパイアされた作品である。安藤設計は現代建築において、その光と影の空間表現が群を抜いて秀逸だ。それにしてもこの画面は、クフ王のピラミッドの上昇通路を思わせる。はたまた善光寺のお戒壇巡りのように、これらが織り成すものは、極楽浄土への憧憬である。尚且つ中央に人を配した、この単純な構図は、観たままの実景ではなかったか。それでも、これは究極の未来への象徴となった。このシルエットの人物像があるからこそ、光の目路の遙か、現在の現実的場景以上の高い価値が生まれたのである。影は身に沿う命であるが、時には生命を超える存在にもなりうる。斯くして作者はサブライムを手に入れたのである。
■文部科学大臣賞 脊梁の地、群馬県沼田市上川田に取材した一作。審査の折、屋根など陽光表現の甘さを指摘する声もあったが、元々作者の本木茂子は、一瞬の実景をここに描き込もうとはしていない。総評でも書いたが、作者の心が対象に深く入り込み、その結果がこの表出となっているからである。つまりこの絵は、記憶による真実の把握であり、単に瞳に映ったままの網膜絵画ではないのだ。題名の≪道祖神≫も、この景色をどのように捉えているかの鍵となる。道祖神とは塞の神であり、悪霊病魔から村を守る境域の神で、更にはイザナギ・イザナミの黄泉の国神話と習合して、この世とあの世とを塞ぐ神としての死生観もある。作者は学際的思考でこの景色を感得しているのだ。
■東京都知事賞 飯田亮子の≪雨の御堂筋≫、作者が色彩の効果に主眼をおいていることは、言うまでもない。色彩の芸術といえば、まずはフォーヴィスムといえるが、その基はゴッホが「色彩そのものに語らせる」と、その色彩の表現力に着目したことがフォーヴィスムに繋がったとの指摘がある。加えて作者は、制作の軸を心においている。それ故、今作は一段とプリミティヴィスムな「カワイイ」を表出するに至ったと言える。武者小路実篤は「人間の心が自然にすなおに生きられる世界が美の世界である。自然に生きられないような境遇にいても、どうしても自然の意志通り生きないわけにゆかない時、崇高な美があらわれる」と言っている。この絵は清澄な心の表出である。
■クリティック賞 星有太郎≪古代遺跡との融合≫。この景勝はクロアチアのディオクレティアヌス宮殿である。ここには旧市街地と現代が入り交じる。それ故に作者は、ある種の感動を覚えたに違いない。前作では杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」と、芭蕉の如くその戦火の後を描いている。しかし今作は、現実の難関を突破するかのような、更なる古代と現代人の共存共栄の景象を描いた。渡邉祥行は絵を描く三つの要素を指摘し「まずは『何を描くか?』題材・テーマの問題です。次が『どのようにして描くか?』画材や技法の問題です。しかし、最も大切なことは『なぜ描くのか?』です」と述べている。作者は、今描くべき時代の、その世界観を見詰めているのだ。
■クリティック賞 アポリネールはシャガールの作風をシュルナチュラリズム(超自然主義)と呼んだ。そのシャガールの絵が、ユダヤの民話や民衆的諺に全部当てはまるように、やはり山上久子の≪“kokoro”輝いて≫においても、全く同格の要因がある。作品はここ3年、民族的基層文化の追究が深まり、自らのルーツを辿る表現となった。一方このkokoroシリーズを描くには、やはり固定観念の打破が肝心で、デッサンを積み重ねた思考では、些か抵抗があるかも知れない。岡本かの子は「銀座の真ん中で素っ裸で寝っ転がっちゃうようなことができなきゃ小説なんか書けやしないよ、書くべきじゃないよ」と言ったが、山上の作品にも、人間の本能が赤裸々に横溢しているのである。

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