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公募第47回近代日本美術協会展 作品講評

■講評
 設樂昌弘(Shitara Masahiro)―美術評論家―

総評

近代の幕開けとは近年、1854年の開国以降、幕末期を含めた時代と捉えられている。しかし会名のそれは、従来の明治維新前後を指す言葉であろう。何れにしてもこの時期、日本絵画は百花繚乱の様相を呈し、既に現代美術に繋がる大方の淵源があったと言える。第二の会名のキーワード、日本にしても美術にしても、この時期ジャポニスムがヨーロッパを席巻して、やがて美術という言葉も生まれ確立していく。つまり近代日本美術協会は、この時期の動向を捉えた会名であるのである。

以前の会は、日本の風土や民族性を重視した、リージョナリズム傾向の風景絵画が主流であった。それが出品作品の枠を小品までに拡げた結果、偶然にも領域横断的に幅広いジャンルの作品が集まるようになった。そうしたなか、会もまた会名同様それら出品作品の範疇を、近代からの日本美術の流れと捉え、思想や流派に拘らず、抽象や具象、ハイブリッドであれアナクロニスムであれ、また其々の技法の違いも、全てを時代の好尚を示す一つのアクチュアリティとして受け入れた。

このように会は、年々表現の幅や厚みを増してきている。近年の傾向として、本年もポップカルチャーやジャパニメーション、装飾還元絵画など、前時代を凌駕する進取的表現も目につくようになった。そして今日、時代はペシミスティックなコロナ禍にある。表現者は、この現実に否応なしに向き合わざるを得ない。こうした現状にあって芸術は如何なる未来を創造するか、今後の近代日本美術協会の動向に目が離せないのである。

受賞作品講評

■近代日本美術大賞 中山以佐夫さんの≪二子碆の風景≫は、審査員の眼識に叶った出色の一作である。作者の感じた原体験は、この目映い陽射しの自然にある。中景は島を微細に観察しながらも、巨視的に脊梁をなし、雲沸き立つ広大な大地が全体の構図を引き締めている。この無為自然に、新印象とも言うべき光の効果で、観者をそれとなく引き込んでいくところが、この絵の真価と言えよう。海に囲まれた日本には、ハドソン・リバー派やルミニズムを凌駕する風景画の可能性が充分にあると感じた。
■内閣総理大臣賞 岩﨑信也さんの≪Distance≫の魅力は、何と言っても作者の出会った風景の構成にある。絵の基礎をなす地形は、自然の要害をもとに、城と街がひとつの生命体のように描かれている。欠けた城壁にはこれまでの歴史が凝縮し、街を照す斜光とそれによる家並みの影は、明るい未来を暗示しているかのような効果を感じた。このように私に思わせたのは、陽の当たった遠景の、城塞の存在である。この絵には、影をして作者の精神の投影がある。
■文部科学大臣賞 ≪八幡浜みかんの里≫は長野雅彦さんの故郷か、または作者の根元的な原風景であると感じた。何時もの作風とは違い、今作は大地と海、島々と雲気で構成された、極めてシンプルな一作である。精神や美意識の一面には、生活の全幅で形成されたり、或いは生得の気質が関聯しているものがある。こうしたものは、シンプルでも強靭である。胸中山水画のごとき、孤高の文人画のようなものだ。しかし、この絵は単なる理想主義ではなく、大地に足をつけ、そこで生活をするリアリズムを呈している。好感の持てる作品である。


さて鑑賞において、作品のリズムを感じることは、重要な一側面である。志賀直哉は、偉れた人間の仕事にはリズムが響いていると言う。ピカソも、絵には「作者の生活のリズムを保存している」と言い、絵を見るとは「このリズムに乗って絵から作者のドラマに達する事である。」と言っている。
■東京都知事賞 ≪天空のしだれ栗≫を描いた東山一義さんの作品は、樹幹の表現が実にダブルイメージを引き起こすほど、シュールでもあり、表現主義的な一点である。伊藤若冲は「目の前のものを観察しつくすと、そのなかに潜む神気が見えてくる。神気をとらえると、筆はおのずと動き出す」と言ったが、芸術は精神的な世界へ開く窓である事には違いない。風雪に耐えた木は、やがて朽ちるか、神になるのである。作者はとんでもない生命に出会ったものである。
■クリティック賞 クリティック賞では、感受性豊かな美の発見をしているもの、且つ純粋な「個」を打ち出しているものを基準とした。 雨宮正子さんの≪免疫≫は、シュルレアリスムの手法で捉えられている。観ての通り、ものを日常の環境から切り離して、別の環境に置くデペイズマンの世界である。人は細菌に囲まれて生きている。この微視的環境と今日のコロナの現状が、この絵のイメージを決定付けた。頭上のコンパスで描かれた円は、人の挑戦、科学の微かな希望であろうか、具象であってもこれら心理的描写は、構図を縦横無尽に設定でき、それぞれのアイコンで様々なメッセージやメタファーも表現できる。夢や幻想、強迫観念すらも芸術は取り込んでしまう。
■クリティック賞 岸田劉生は「人物画(及び動物画)にあっては眼を立派に描き得るという事は、とりもなおさず「形」以上のものを描き得るという事である」と言う。磯貝玉惠さんの≪午後の光≫を観た時、その描かれた人物の視線に、岸田の言う形以上のものを感じた。巣籠もり中に体験した情景だろうか、絵は佇立する女性と窓枠の影で構成される。画面のグリッド状の影は、中央に大きく十字を切り、表情の曖昧な女性像と相まって、微かな希望を連想させる。この絵に観るこの微妙な感覚、これこそこの絵にとって大切な要素である。秀逸な一作であった。
■芸術文化功労賞 久しぶりに樹木をテーマにした山下拓さんの≪樹精≫は、おそらく実景による風景だと思われるが、画面一杯に描かれた大木が、単なる写実を越えようと迫ってくる。この大木という客観の事象は、物我一如、つまり自分と大木の生命の融合を表している。そう思うのは、今回の主題が明確であることによる。こうした内省の態度をもって自然を観、自意識の作用をもって自然を観る事を自然主義と言うが、画面からは葉っぱ一枚にも気を配った作者の、深い思いを感じた。光と影だけの描写では、こうした画格は生まれないのである。
■渡邉祥行賞 河野長廣さんの≪光風の里田≫は、セイタカアワダチソウが占拠した叢(くさむら)であろうか。ふと「富士には、月見草がよく似合ふ」と書いた太宰治の『富嶽百景』の文章を思い出した。作者もまた、この叢に込めた、作者なりの精神の表徴があるのだろう。日輪と叢、そこに吹き渡る風で、宇宙を表出したものか。さらに進めて、風に蜒る叢は、やはりコロナ禍の見立てによるものか。因みに太宰の月見草は、金剛力草に見立てて、富士と対峙させたものであった。
■選抜作家賞 行楽の一時や何気ない些事を、パン・フォーカスで切り取り、家族愛を表現する野上悟さんは、ありふれた日常から一瞬のモダニズムを追求している。本作≪おうえん≫では、より人物に焦点を当てるべく、キアロスクーロ効果を狙った。それにより子供だけの画面は、より密度がましている。希薄な愛情が取沙汰される昨今、作者は良いモチーフと出会った。ところで家族団欒の絵でも国宝となり得る、久住守景の≪夕顔棚納涼図屏風≫がそれだ。今後の作者の仕事に注目したい。
■近美未来賞 清家夕記子さんの≪千里一跳≫は、日本独自の模様と民話のイメージで組み合わされた作品である。日本人にとって模様は、精神そのものであり、肉体に連なったものと言ってもいい。川端康成は「伝統は創造するにも鑑賞するにも、表に立つ助けあるいは裏にひそむ力になっている」と言う。本作はイラスト然としているが、そこも現代感覚を捉えた表現だと感じた。意図したものを越えようとする、これも伝統の生命力である。
■東京都議会議長賞 この絵を観たとき、一瞬、世紀末絵画ファム・ファタルを思い出した。ファム・ファタルとは≪サロメ≫や≪ユーディット≫に描かれた女、“宿命の女”とか“命取りの女”などとも訳されるのである。しかし菊池純代さんの≪月下美人図≫は、その花の如く一晩しか咲かないことや、また夜に咲くことから神秘的なイメージをもって、美人薄命と言った意味を持つものと言えよう。、更にこれは、ヴァニタス(儚さ)を表していると思われる。実に蘊蓄ある一作である。
■東京都議会議長賞 神を表現するとは、どのようなものだろうか。日本では≪那智滝図≫など、自然を通して表現された作例もある。こうしたなか、飯室眞さんの≪権現堂(西新井大師)≫は、お堂を描いて権現の神聖に迫ろうとしている。そのように感じるのは、お堂を真横に捉えた視点と、鬱蒼とした樹木の構図の効果による。つまり、真正面より捉えるような、説明的な名所絵構図を避けたからなのである。地味な表現かもしれないが、深い探求がある。
■東京都議会議長賞 島村由希さんの≪花が咲くまで≫は、私には具象を基にした抽象絵画と映る。画面の水平線は、湖などの倒影構図を示唆し、実と虚、風や時間なども交えた幻影を表している。主に抽象絵画は、フォルムと色とを解放することで発展してきた。それ故、積極的に鑑賞者の想像力に訴えかけてくる。更に私は作者の絵に、水墨画のような東洋的アイデンティティーである、線の情動的還元を感じるのである。
■理事長特別賞 長谷川和子さんは、銅鍋に取り憑かれた作家である。赤褐色の銅鍋を活かすのは、勿論静物画だ。静物は色や形の響きあい、配置によって構図は自在であり、自己の思想を反映しやすい。だから銅鍋は作家そのものになる。しかし自由なだけに、この絵の完成度は難問である。かのカラヴァッジョは、静物画を人物同様に評価しているほどだ。そうしたなか≪隅の輝きⅢ≫は、近年になく絶妙な調和を表現している。
■理事長特別賞 幻想的印象の作品である。しかし本作は新表現主義に裏打ちされた逸品でもある。画面は日没、海が青黒く、対照的に空はペンキで塗ったような、虚無感が漂う。遠景には、倉庫や生コンクリート工場、そして生活感のないマンションのシルエットに気付くと、これはもう風景画としての、資本主義リアリズムの表出かと思うのである。この馬越まゆみさんの≪1日の終わりに≫は、深いメッセージが漂う。

さて、絵画は人に観られ、人に語るからこそ成立する。しかし、例えば抽象表現主義の絵は誰が観ても同じと言うわけではない。それは具象絵画にも言えることでもある。結論を言えば、絵は各々自由に鑑賞するべきものである。だが鑑賞においては、私が思うに時間をかけるべきだと考える。審美眼も年齢とともに変化するからである。私などは、未だに古寺巡礼だの、修学旅行をしている次第である。まだまだ、講評するべき作品は尽きないが、私の感想は以上としたい。
※因みにエリック・R.カンデルによれば、鑑賞とは、認知的影響や注意、想像、期待、学習された視覚的関連づけ、などといった高次の心的機能に関連するトップダウン情報と生得的に備わるボトムアップ情報から成り立っていると言う。


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