公募第51回近代日本美術協会展 総評および作品講評
■講評
設樂昌弘(Shitara Masahiro)―美術評論家―
第51回近代日本美術協会展 総評
新型コロナウイルスによるパンデミックの分断から解放の後、世界は争いや殺戮、エスノセントリズムによる差別や遺恨、次々と負の連鎖が止まらない。加えて国内では闇社会による詐欺や強盗や殺人、そして天候不順や自然災害など、時代の荒波は我々に容赦なく襲いかかる。波乱重畳、誰もが己の無力さを突きつけられるなか、時代に争う作品が、今回近代日本美術大賞に選ばれたことは興味深く思う。その一方で会主流の風景画も、俳味的風景画や如実知見の景色など、表現様式のハイブリッド化により、更なるブラッシュアップを図りながら、現代的独立不羈の精神を提示している。それに加えて、こうした時代だからこそ、先の風景画も含め、仏像心象や素朴派など、祈りや慈悲、優しさを表現した作品が、胸中深く印象に残ったのであった。
〈1室〉では天笠勉が雪景で心底を表出し、寂光を奏でる高梨敬子、生々流転を描く小林俊彦、そして雨宮正子のカオスアトラクターの噴出に加え、幽玄な視点の嘉見敏明と片や大景の大野定俊、リリカルな妙趣の島村由希等が目に止まった。その他は星有太郎、後藤稔、河野長廣、江田恵子等の作品も列記しておきたい。〈2室〉は、曙光のタウンスケープの渡邉祥行を筆頭に、飛天と月輪観を描く中川令子、実感をポワンティエで探る粟嶋美幸や、端正な眼差しの山下拓、時代の影に向き合う赤松芳治の他、ラ・トゥールばりに闇を照らす樋口奈穂と、それぞれの精神風土に根差した阿部茂夫と浅野美杉、そして飯室眞、中山以佐夫、入木健、福田守男等にも着目した。〈3室〉は神を慶賀する二神恵子、死生観に対峙した石澤薫美、素朴な直観の山上久子の他、クリティック賞の中村元彦と河内正行の両名、更に大重都、川上則子、田村典子等が光彩を放っていた。〈4室〉は、マインドパレスの本田哲也とミニマルの金央夫の他、後は西村益美、田幡美佐男、飯田亮子、加藤芳子、安藤幸子等が目に止まる。〈5室〉は現代琳派の岩井真司、群禽図の中村淳子、他方、植物画の多義的表現者として藤田誠治、田中二三子、不動貴雄、坂本由佳等の作品にも注視した。翻って素朴派の松井英典、馬渕好美、築山風花、鳥居真寿美等も光るものがあった。〈6室以降〉は、田端由記子、冨田実、髙坂小太郎、山本良重、三浦郁、近藤光、馬越まゆみ、吉田絵美、増田弘美、杉元隆子、谷沢展子、田中満紀子等枚挙にいとまがない。初入選は東武寿、寺井達哉、水津勝美、仙田敦志、陶興琳、横田京悟、土居昌治等、新人室ではあるが大尾を飾るに相応しい力作揃いであった。
最後に小品公募部門においては、受賞作品を中心に大石征子、大西翔、金基哲、豊田明生、塩谷真理子、玉井陽子、石﨑保則の他、今井優、雷雁沙、野上悟、佐藤紳二等の作品も感慨深いものがあった事を記して総評の筆を擱く。
(敬称略)
受賞作品講評
■近代日本美術大賞
《対立》。雨宮正子の評価は、やむにやまれぬ内心の表現であろう。全く画面にはカオスと乱暴力(抑えきれない精神がうむ力強い表現)が横溢する。画面を取り巻くゴム風船は人の細胞の様であり、戦争の残骸であるヘリコプターを、上空や下方から攻撃しているのだ。プロペラの先のラウンジチェアは、暮らしの危うさを示し、カブトムシは自然淘汰を象徴したものか。言語脳科学者の酒井邦嘉は、「美の感性は人間にとって根源的なものです」と言い、「民族同士や宗教の対立がさらに激化している現状は、最初から文化の多様性を認めて対話を旨とする芸術の精神がない限り、解決は不可能であろう」(『芸術を創る脳』)と述べている。ならば芸術には平和の可能性がある。作品は未来に繋がるのである。
■文部科学大臣賞
《残雪》。空海は「池鏡私無く、万色誰か逃れん」(『遍照発揮性霊集』)と説いている。これは「鏡の様な池は私情はなく、全ての物質的存在を写す」と言う意味である。流れる川もまた、瞬時に全てを映し出す。小林俊彦の今作の第一印象も、正にその事を示している。つまりその川面には、田毎の月のごとく、波毎の空が反射している。これは空を描かずして、虚空の空間を表現した一つの宇宙なのである。その宇宙の字義は天地四方と古往今来であり、「宇」は空間、「宙」は時間の意味を持つ。そしてこの残雪もまた宇宙そのものなのだ。作者は丹念に真実を探りながら、自然に隠された「美」を探求している。その姿勢は常住不断の眼を持って、自然の諸相を発見する哲学的思考なのである。
■東京都知事賞
山下拓《東照宮。三神庫》、画面は日の暮れるのも忘れ見惚れてしまう、日暮の門とも呼ばれる陽明門をバックに、上神庫を大きく描く。このような構図としたのは、作者なりの思い入れがあっての事だろう。徳川家康は「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし…及ばざるは過たるよりまされり」(『東照公御遺訓』)と言っており、上神庫を描いた理由はこの最後の一文、「足りないほうが、やり過ぎてしまっているより優れている」の、その意を汲んだものかとも思う。しかしここは、重要なご神宝の倉であり、妻に彫刻された二頭の象は、狩野探幽の下絵によるもの、やはり東照宮は侮れないのである。作者も恐らく探幽をリスペクトしての事だろう。
■クリティック賞
河内正行《錦秋の懐古園》、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ…」(『千曲川旅情の歌』)と、この画題から島崎藤村を連想した。絵は余日少なくなった、秋の某日と旧墟の光景である。それに加えて、前景の池は噴水の波紋の中、色を反射してこの絵に軽快さを与えている。今作は前作のように内面性に切り込んだ、ねっとりとしたフォトリアリスティックな表現を一新させた。それはごく自然な視点で、ファインアートの一つのモーメントとして、その絵画性のみに着想した体現であろう。眼前の形象のみの注意で、人の気配は全くなく、この自然現象だけが本作の信条なのだ。それを構築するために作者は、モチーフと自らの調和を大切にしたと思う。それは印象派のような穏やかな視線である。
■クリティック賞
中村元彦の《坂のある草津の路地》は、場末の草津を描く。実はここは私の故郷であり、瞬時にこの裏路地が分かった。湯畑から滝下通りを東へ行くと、この谷底の道に至る。街の中心部にあるランドマークを避け、硫黄臭に錆びつくトタン屋根や、その残雪が侘しさを醸す。よく作者はこの場所を見つけたものだ。「侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し」(『散歩の収穫』)と赤瀬川原平は、千利休の言葉を引用して陋巷のやはり庇の錆びたそば屋の、その数寄心をカメラに収めたが、ここにも同じような美意識がある。手前の点景は観光客であろうか、正面奥、手摺りの高台から降りてきたのは居住者のようだ。何れにせよ画中は人間探求派の句風のような、その冬ざれが私の心を鷲掴みにしたのである。
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